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玄侑宗久1

禅的に暮らす。「論語」の中に君子は器ならずという言葉があって、器とは何かの専門家という意味であるが、「役」とか「役割」という意味としてとらえてみる。「悟り」というのは、あらゆる立場や役を離れて、全的自己を実現するということで、本分と呼ばれている。そして、現実的には何かの役としての存在があって、それを方便と呼んでいる。つまり、本文というものはあるのだろうが、なにかの役に徹することこそ、究極の人生と言えるのではないかということ。日常生活を送るうえで、一つの役割で生きているということは、ない。あるときは、会社の中での立場、学校での立場、友人の中での立場、恋人との立場、家での父、母、夫、妻、息子、娘など、その状況によって、とにかく自分の役割というものが移り変わっていく。ここで、大事なのは、一つの器に入っているときに、二つ以上の顔を持ち込まないことだ。たとえば、父として、娘に接しているときは、それに徹しろということである。つまり、コロコロと立場や役が変化していっても、そのときどきでは、一つの器に100パーセント入っている。いってみれば、器から器に、自分が次々移っていくということである。これを無節操という人がいるかもしれないが、公務員が24時間公務員でいようとするのは、立派かもしれないが、私が目指すのは、自由なので、無節操と言われようが、その瞬間に自己が分裂することの方が困るのである。本来は複層的に持っている役を一つに絞ることが、禅的な智慧なのである。複層的に垂れ流すと生命力は煩悩になってしまうのである。人が一つの役を生きるのはあくまで方便なのだから、本来の複層的な本質的な自己に戻ることもある。「恋」がなぜ、苦しいのかというと、「恋」は全的なものだからではないか。役がはっきりすれば、テキパキと動いていくはずである。しかし、その「全」が「一」にならないから、自分でもどうしてようかわからず、ぐずぐずうだうだして、煩悩の固まりになってしまうのだ。